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    でるかでるかと待っていたら、やはり出ました。そのわりには紹介が遅れましたが許してたもれ。一応「つづき」にコピペしてありますが、なるべくオリジナル・サイトで読んで下さいね。

ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年4月号
チベット問題を考える
マテュー・ヴェルヌレー(Mathieu Vernerey) 訳・土田修
http://www.diplo.jp/articles08/0804-3.html

    さて、個人的であってもチベット支援者の端くれとして考えさせられる記事である。特にチベット人の政治的アピールの歯痒い解りにくさ(統一感のなさ)には亡命社会のおかれている政治的状況の不安定さだけでなくダライ・ラマ14世の偉大さも逆に作用していると云う点に関して、改めてう〜んと唸ってしまいました。
    そして、この事は少なからずチベット支援者たちにも影響しています。目指すところがどこなのか。独立なのか高度な自治なのか。あるいは人権尊重なのか。まるで呉越同舟の群です。確かに今は緊急を要する時でそんな悠長なことを言ってられないのかも知れませんが、現に一部の暴力行為がチベット支援者の印象を悪くするような事態があります。大阪ピースウォークでも右翼の街宣車がつきまとっていましたし、趣旨上しない筈のフリーチベットのコールが後ろ半分で起こっていて、何ともチャンポンな感じでした。よく言えばおおらかで自由ですが、悪く言えばバラバラ。今だから許される事ですが、いつまでもこんな状態では先行きが不安です。
    今、急激にチベット人へのシンパシーが膨張し、チベット人を支援しよう応援しようと云う人が増え、日本各地でチベット関連のイベントが連日行われています。2008年3月中旬より前には考えられない状況です。ただ、この急変は逆方向にも向かう可能性もあるので怖いです。オリンピックが始まればスポーツ気分に水を差す五月蝿い連中と思われやしないか?オリンピックが済めば忘れ去られるのではないか? 表立ってはいなくても以前からチベットを憂いていた人たちを熱い石(意志)だとすると、今の熱気の多くは水蒸気です。この熱くて賑やかな、だけど流動的でもある熱気を少しでも多くとどめるためには、日本のチベット支援の在り方に何かしら変化が必要です。
    何だか言いっ放しで、草の根で地道に頑張ってこられた方から何もしてこなかったくせに何を無責任な!とお叱りを受けそうですが、多くの憂チベに共通する不安ではないでしょうか?

追記:
    念のための断りですが、水蒸気と石の喩えはチベットへの思いを差別化するものではありません。人の心の移ろいやすさが私は怖いんです。今は一つの勝負所ですが、本当の正念場は五輪の後なのです。その時に今の熱気が冷めてしまっていたとしたら、日本の支援団体は何をやっていたのだと批判されてもおかしくない。いや、そんな批判すら起こらないほどの無関心に戻ってしまう可能性すら充分にある。取り越し苦労であればいいのだけども、疑り深いオッサンで申し訳ない。(4/30 22:00)



チベット問題を考える
マテュー・ヴェルヌレー(Mathieu Vernerey) 訳・土田修

3月にチベットで起きたデモに対する弾圧は、国際世論に激しい感情をかき立てた。数千のチベット人が2週間、街頭に繰り出した。まずラサで、次いで他の町で、チベットの旗を振り、独立を望むスローガンを連呼した。60年におよぶ中国支配に対する明らかな拒絶表明だ。

チベットの運動の本質はどこにあるのか。仏教徒の反乱と説明されることが多く、今回の抗議行動の先頭に立ったのも僧侶たちだった。また他方では、激しい弾圧にもかかわらず、多くのデモ参加者が前代未聞の暴力行為に走り、これまで非暴力で知られていた闘争のイメージを曇らせた。回族のイスラム教徒や漢族の民間人(1)もこれらの「暴徒」の標的となり、チベット人の反乱の動機が宗教的、民族的なものであるという印象を残した。

デモ行進のタイミングは象徴的だ。それは、中国の介入に対する1959年のラサ民族蜂起の記念日に当たる3月10日に始まった。ラサ蜂起が粉砕され、ダライ・ラマとその「政府」がインドに亡命し、インドは多くの難民を受け入れた。だが、インドの首相ジャワハルラル・ネルーは、チベットの「政府」を自国領に迎えつつも承認はしなかった。その点は国連も同様である。

中国が「平和的解放」と呼ぶ1950年のチベット侵攻は、論争的な歴史観に根ざした事件だった。中国側は歴代にわたり、この地域の併合と維持に苦慮してきた。他方、チベットの側は、現代世界に対し、独立の歴史的正当性を納得させることが出来なかった。

中国によるチベット領有権の主張は、モンゴル系の元朝時代の13世紀、次いで満州民族系の清朝時代の17世紀にさかのぼる。中華帝国の西方の領土は、この2つの時代に最大に達した。元朝は、中国とチベットを含むアジア一帯を支配したモンゴル帝国の足跡に沿って、軍事的遠征を成功裏に繰り返した。

元と清の間の時代にはモンゴル系の君主たちが、沿海部征服に力を入れた明朝の勢力圏外で、長期的な対チベット政策をつくり上げた。 1578年、アルタン・ハーンがチベット仏教の内紛に介入し、ゲルク派の座主を支持して、ダライ・ラマ(智慧の海)の称号を与えた。さらに1642年には、グーシ・ハーンがダライ・ラマ5世の政治的権威を擁護し、かつてチベットとモンゴルの間で結ばれたチュ・ユン(導師と施主)の関係を強化した。これは、モンゴルの君主がチベットに軍事的な庇護を与え、チベットの宗教的指導者がモンゴルに光を与えるという関係である。チベットは、清朝との間でも、また時代の勢力関係に応じて他の隣国との間でも、こうした関係を結んだ。

チベットは歴史的に、外部勢力からの干渉を受け続けてきた(中国からよりもモンゴルからの方が多かった)。このため国としては弱体で、 1720年にモンゴルを撃退したのも、1792年にネパールを撃退したのも、清に援軍を仰いでのことだった。中国はこのころ、チベット行政機構の再編を試みたが、それを維持することは出来なかった。清朝崩壊後の1912年、孫文が南京に共和国を樹立し、その1年後、チベットは独立を宣言した。

1914年、インドのシムラでイギリス、中国、チベット代表による3者協定が結ばれた。それは、チベットに対する中国の宗主権を承認するものだった。しかし、中国の指導者はチベットと同格に扱われることを拒否し、署名しなかった。

中国が内憂(軍閥による内乱、次いで共産党と国民党との内戦)と外国からの侵略(フランス、イギリス、ロシア、日本)に見舞われるなかで、チベットは1913年から1949年まで事実上の独立を享受した。中華人民共和国の建国宣言から数カ月後の1950年、毛沢東はチベットへの侵攻を決定した。発足して間もない国連の安全保障理事会では、本件は中国の内政問題だという国民党政府(後の台湾)代表の主張が受け入れられた(2)。
対話の中断
1951年、毛沢東は軍事的圧力を加えつつ、チベット指導層に17カ条協定を押しつけた。この協定には「チベット人民は祖国の元に帰る」と記されている。見返りに自治権が与えられ、「現行の政治体制と(・・・)ダライ・ラマの地位、職務、権限」は維持されるとする。だが、チベット人にとってダライ・ラマは宗教的指導者と俗世の指導者を兼ねた存在であり、それは協定書の文言と相容れない。そのうえ、中国政府は約束をどれも守らなかった。

1959年、亡命したダライ・ラマはこの「協定」を明確に否認した。彼は政府を再建し、議会を設け、亡命者の共同体を組織した。亡命者の共同体は、あくまで独立闘争を続けるつもりでいた。他方、ダライ・ラマは「平和的な解決に向けた交渉を促進する条件をつくり出す」意向を明らかにした(3)。1979年、中国の新たな指導者トウ小平は、「独立を除くあらゆる点で話し合いに応じる」と表明した(4)。1985年までにチベット代表団は4回にわたり、1965年に自治区(5)とされたチベットへの訪問を許可された。中国側の意図は現地情勢の好転を確認させるところにあったが、代表団の納得を得ることはほとんど出来なかった。

1988年、ダライ・ラマはいわゆる「ストラスブール提案」によって、公式に独立を断念し、自治権および中国との連合関係を志向する姿勢を示した。しかし翌年、民族蜂起の記念日に当たる3月に、1959年以来最大規模のデモが弾圧されたことで、中国政府との対話は中断された。ダライ・ラマは交渉の再開を望み、中国の主権の範囲内での「真の自治」に関する提案を繰り返した。2002年から2007年までに、中国とチベットの間で6回の会談が行われた。しかし、最近のデモとその弾圧を見る限り、歴史は繰り返すと言わざるをえない。

仏教は、確かにチベット人の民族意識の一要素ではあるが、それですべてが説明されるわけではない。チベットにおける民族感情とは、何よりも中国に対する拒否感である。住民の大半があきらめているかのように見える一方で、こうした拒否感がますます激しい形で噴出している。中国政府はダライ・ラマを「主要なトラブルメーカー」と決めつけているが、チベットでは、この「宗教的指導者」の影響力をあまり受けていない新たな世代が出現している。

中国社会の傍流に放置されてきたチベット人は、入植者の増大によるチベットの漢族化という事態に直面している。しかも、政府の喧伝する経済発展の恩恵にあずかってはいない。チベットへの投資は、根強い民族感情に由来する住民の不満への対策となるはずだったが、結果は失敗に終わっている。植民地的な論理に依拠したことが大きな原因だ。

「ラサの中国人街」では暴力行為が荒れ狂ったが、今回初めてチベットの他の都市や、かつてチベット人が住んでいた他の省にも広がった反乱運動の際に、同様の暴力行為がみられたわけではない。今回の抗議行動には在家の一般人と僧侶がともに加わり、チベットの旗とダライ・ラマの肖像を大きく掲げた。

この「宗教的指導者」は亡命中の国家元首と信徒たちからみなされており、一部のチベット人が正面闘争を主張する現状にあってなお、彼の権威はチベット内外でまったく損なわれていない。彼はいまだに民族統合の絆であり続けている。その点は中国当局もいわば認めており、チベット共産党委員会書記は今回の事態を「ダライ・ラマとその一味に対する死闘」と表現した(6)。この発言はチベット人の民族感情をますます煽っている。

ダライ・ラマや独立問題についての在外チベット人の姿勢は、内地のチベット人に比べて複雑である。独立問題はダライ・ラマが表向き断念して以来、長らくタブーになってきた。ダライ・ラマは中国政府に対する開放と対話の政策を繰り返し主張している。それが最も明確な形で表れたのが、2002年10月の発言だ。ダライ・ラマは、「対話促進的な雰囲気」を醸成するため、世界中の活動家が反中国的な示威行動を控えることを求めた。この自制を求める呼びかけは、多くの活動家に困惑と意気消沈を引き起こした。

これにより中国側は目的を達成した。公然たる抗議活動はなくなり、国際的にも「誠意ある」対応をしているとの評価を獲得した。だが、政治的にみれば、チベットの自治をはねつけたというのが実状だ。チベットの独立派は、だから独立すべきなのだと強調したが、具体的に何をすべきかという定見は持っていなかった。

党派制なき「議会」
在外の独立派は、さまざまな組織があるものの、統一的な運動には至っていない。どの組織も「亡命政府」の方針に替わるような、またはそれと並立するような新しい提案を出すことが出来ていない。内地では、独立を求める目立った行動は、ほとんどが孤立した個人による。なんらかのはずみで集団行動が起きた場合も、自然発生的で予測できないものであり、明確な目的も戦略もない。

北京五輪開催を前にしたメディアの注目は、世界に向けて中国支配を糾弾する唯一無二のチャンスをチベット人に提供した。インドでは独立派の主要5団体が連合し、3月10日にチベット帰還行進を開始した。行進はただちにインド当局によって阻止されたが、次々に新たな行進者の波が押し寄せた。同時期に、ラサでデモが始まり、やがて規模が広がり、他の地域にも拡大した。先に述べたように、これらの動きは戦闘性と大衆性を併せ持つものだったが、政治的な明白さや分かりやすさを欠いていた。より一般的に言えば、ここで提起されているのは、「チベット人民」が誰によって代表され、どのように意見表明するのかという問題だ。

「亡命政府」について内地チベット人の大半は、ダライ・ラマの主権と行政権という原理の継続性を体現している限りにおいて、正統性を認めている。だが、「亡命政府」が問題を解決できず、独立を断念していることで、ある種の不信感が形になって表れてきた。ただし、そうした不信感はダライ・ラマには及んでいない。

「亡命政府」の外交活動は、「亡命チベット議会」の代表団とは別物である。「亡命チベット議会」は、内地居留者を含めた全チベット人を代表しているとされる。だが、チベット自体での選挙実施は不可能なので、それはあくまで象徴的な意味合いだ。実際の選挙民は、インドとネパールの在外チベット人共同体であり、歴史的にチベットに当たる地域の3つの伝統的な地域区分によって分けられている。さらに、チベット仏教の5つの宗派にも、欧州や北米に四散したチベット人にも、それぞれ代表の枠がある。こうした複雑な「選挙区割り」のせいで、「亡命チベット議会」の代表性は明解とは言いがたい。

そこには、より根本的な問題が潜んでいる。チベット人が政治的な議論を形成できずにいるという問題だ。例えば「亡命議会」には政党がない。この「議会」について、暫定「憲法」で廃止と明記されてはいないものの、なんの規定も置かれていない。その一方で「憲法」には、行政・立法・司法権の分立や、投票権、普通選挙による議員と「首相」の選出などが規定されている。しかし、政治的な目的や理想を掲げる党派がつくられないまま、民主的な機構だけを整えても、民主主義は確立されない。そもそも、独立派と自治派という水面下の亀裂も、明確化はされず、党派の形にはなっていない。

2006年3月の議会選挙の際、チベット独立支持を表明した議員も何人かいたが、そうした公約を議会活動に反映させた者はいない。ダライ・ラマと違った意見を表明することは難しいからだ。それは共同体内部では、ただちにダライ・ラマへの反対だと受け止められてしまうのだ。

今のところ、政党の形成についてのチベット人の抵抗感は強い。独立支持を表明する議員は増えており、一部の議員たちは「院外」グループをつくる動きを見せている。だが、彼らの行動の余地は限られている。不利な条件が揃っているからだ。亡命チベット人は不安定な状況に置かれ、受け入れ国インドの寛大さはあてにならない。外国政府は現状維持を図って圧力をかけ、内地のチベット人は中国から報復を受けている。

燃え上がったチベットは、政治的な「声」を必要としている。ラサの春の芽吹きが花開く前にしおれてしまわないためには、それが欠かせない条件だ。今回の事件は、中国の胡錦涛主席にとっても大きな意味を持つものだった。1989年の暴動のとき、チベット共産党委員会書記として鎮圧命令を出し、戒厳令を発布したのは彼だったからだ。胡錦涛は、チベットの騒乱が天安門事件の前触れであることを予感していた。

チベットの事態は、民族的な要求のくすぶる他の地域へも飛び火する恐れがある。新彊のウイグル族や内モンゴルのモンゴル族などだ。中国政府は、国際的なイメージを落とさずに、自国の安定を脅かす内政問題を鎮める方法を模索している。

(1) 中国は、56民族からなる多民族国家と自己規定する。人口の92%は漢民族が占めている。チベット族、回族、ウイグル族、モンゴル族については、それぞれチベット、寧夏、新彊、内モンゴル自治区が置かれている。See Maniere de voir, No.85, << Jusqu'ou ira la Chine ? >>, February-March 2006.
(2) ラサ蜂起の後、1959年、1961年、1965年と3つの決議が国連で採択された。1961年の決議はチベット人の「民族自決権」を確認している。
(3) 1959年6月20日にインドでダライ・ラマが発した声明。
(4) 1979年3月に北京で、トウ小平がダライ・ラマの兄ギャロ・トンドゥプに伝えたメッセージ。
(5) チベット自治区に含まれるのは、歴史的にチベットに当たる地域のうち中部ウ・ツァンである。他の2つの地域、カムとアムドは、青海省のほか、甘粛、四川、雲南各省の西端部に統合された。
(6) チベット共産党委員会書記、張慶黎の言葉は、2006年5月21日付の西蔵日報(ラサ)で報じられ、2008年3月19日付の同紙にも「ダライ・ラマ一味に対する死闘」という表現で再掲された。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2008年4月号)

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1
無題
重いねぇ。前に僕は書いたんだけど、例えば「独立」したとしても、それが民主的な体制になるかどうかっていうのは全く別の問題なのだと思う。確かに民主主義の為にはダライ・ラマの存在は大き過ぎる。自身も分かっているから来たるべき時には政治からは身を引くとか、自分が政治家としての最後のダライ・ラマだというよなことを言ってるのだろうけど、人意はまた別のところにあるのだろうし。ただ、どちらにしてもそれは彼ら自身が決めるべきことなんだということだけは、確かなんだと思う。その時に例えば僕がチベット批判派にならざるを得ない事態になったとしても。
日本のチベット支援、個人的には凄くストレスです。「右翼」だけじゃなく、やっぱりこれだけ「一般人」が興味を持つとなるとTSNJやSFT,TSNがどんなに「反中」と一線を画した最大公約数を公式表明にしていても、反中意識を持った人やナショナリズムを良しとする人が多く集まってくる…
それと、中心で苦労してる人達の、在日チベタンたちと法王の言葉に則ってという、印象としてはチベット仏教なりに思い入れのあるようにも見える人達と、右でも左でもノンポリでも、必ずしも仏教に思い入れがある訳ではない大多数の人たちとの軋轢のようなものも、或いは例えば長野なら長野で組織として行動している人達が見て感じるものと、個人やネチズンたちが見て感じたものとの差異、そんなものが少し見えてきたりして。
オリンピック後、どのように実効的な活動が可能なのか、僕には今のところ見えていません。
没関系 URL 2008/05/01(Thu)00:06:14 編集
Re:無題
はい、重いっす。
チベットの独立云々については、私も同じ考えです。
それより憂鬱だったのは日本のチベット支援の方です。というのも、それまで主にネットを通した間接的な文字情報でしかなかったものに初めて大阪で生で接し、かなりの衝撃を受けました。長野の報告を読んだブログ記事も含め、たまたまなのでしょうが、聖火リレーは多くの人たちに反中嫌中の気分を芽生えさせ、または増幅させたのではないか___やばいなぁなんて焦燥を一人募らせていました。
でも、没さんのコメント読んで、少し考えて、ここは開き直るしかないと、今は気持ちを入れ替えてます。
今度こそ、東京、絶対行きます。大阪でシュプレヒコールを敢えて我慢した分、思いっきり叫びます。

FREE TIBET !
【2008/05/02 13:35】
2
無題
「聖火リレーは多くの人たちに反中嫌中の気分を芽生えさせ、または増幅させたのではないか」・・・間違い無くそうだと思います。実際、キャンドルやってても反中意識ガチガチな人が来たりもします。中国国内でナショナリズムが噴出してる分にはある意味で理解できるとしても、国外でのそれは本当に困る。特に日本のような特殊な場所では。
6日、もしかしたら「コキントー帰れー!」「シナ人は火星に飛んでけー」って叫ぶ系の団体が勝手に便乗する可能性はあると思います。個人的にもそのような意識の人も少なからず来ると思います。長野での暴力行為や反中発言に関して少なくとも「遺憾の意」くらいは表明すべきだっていう僕の ML はスルーされてるみたいだしね。
 いろいろな事を諦めないで切れないでやっていくのは、本当にシンドイね、この問題に関しては。その意味で、14世の思想は宗教的共感といったものを抜きにして(個人を崇拝することとは別の次元で)大切なメッセージなんだと、改めて思ったりします。
没関系 URL 2008/05/02(Fri)23:29:47 編集
Re:無題
キャンドルにもか。。。それは辛いなぁ。冥王星あたりで頭冷やしてからにしてくれませんかねえ。今度のデモには飛び入りも歓迎ですし、ほんま頭痛いですね。どうやら遺憾の意はなさそうですし、地道に説得と云うか、諭すと云うか、やんわりと解凍してゆくしかないのかな。手間やなぁ。
チベタンのたーめならエーンヤコーラ♪
ダライ・ラマ14世のことばは私を正気に力強く保ってくれます。
【2008/05/03 00:46】
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